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不動産投資するなら知っておきたい!借家事業の歴史(江戸時代から現代まで)

2023.06.20

コラム記事97のメイン画像 不動産投資

今の時代は会社員や公務員などといったサラリーマンでも不動産オーナーとなり、賃貸業を営むことができます。今回の記事では、こうして不動産賃貸業ができるようになった歴史的背景を江戸時代から遡って見ていきます。借家の始まりは江戸時代からと言われています。 江戸時代にはどんな借家が誕生して、その後どのように変化していったのかを解説していきます。 歴史から不動産賃貸業を知ることで建物の構造の変化や、不動産に関わる制度について理解することができます。この記事で借家事業の歴史を学び、今後の戦略を立ててみてはいかがでしょうか。


江戸の借家

江戸時代になると賃貸物件にあたる「長屋」が誕生しました。

この長屋を使っての借家が現在の不動産賃貸業の始まりと言われています。

 

 

江戸の土地

江戸の土地の6割は武士、2割は寺社が所有していて町人は残りの2割の土地に住んでいました。

 

1721年(享保6年)に8代将軍の徳川吉宗の時代に行われた調査では、江戸の人口は100万人を超えたと言われ、そのうちの約半分の50万人が町人でした。

この町人たちが江戸の土地の2割という狭い土地で暮らしていたのです。

 

 

町人の土地の所有

江戸では貨幣経済の発達により裕福な町人が台頭し、彼らは土地の所有も認められるようになりました。

 

土地を所有するようになった町人たちは、自分の店と住居を構えていました。

町人が所有を許された土地は「沽券地(こけんち)」と呼ばれ、売買が許されていました。

沽券地の「沽」は売買、「券」は証文を意味し、現在の「不動産権利証」にあたります。

 

町奉行所には、沽券に記された土地の所有者や面積が記された「沽券図」(現在の「公図」)が保管され、不動産取引の権利が守られていました。

こうして正式に、不動産の売買や賃貸借の取引が行われるようになりました。

 

土地を所有している町人たちは店を構え、商売をしていましたが、商人として働くほかに「地主」として土地を活用する者もいました。

地主は所有する土地に住まず、家守に土地を貸して地代を取っていました。

 

土地を借りた家守は1棟の建物を区割りした集合住居形式の長屋の管理を任され、商売をする町人や庶民たちに貸しました。

これが現在の借家経営の始まりです。

 

 

江戸時代の長屋

長屋は1棟の建物を複数の住居に区割りしたもので、現在の集合住宅の原型です。

長屋の中央には共同のトイレ(雲隠と呼ばれていた)や井戸が配置され、風呂はありませんでした。

 

表通りに面した部分を「表長屋(おもてながや)」と言い、主に日常生活に必要な品物を売る商人が借りて、商売をしながらそこで生活していました。

通りに面さない場所には、長屋を小さく区割りした「裏長屋(うらながや)」が建てられ、行商人や日雇い、物を作る職人などが居住していました。

 

 

家守の仕事

長屋の地主は所有する土地に住まずに、家守に長屋の管理を任せていました。

家守は、長屋の管理を行うことで地主から報酬を得ることができました。

 

家守が行う主な長屋の管理の仕事は、家賃の集金、長屋の修理の指図などでした。

ほかにも店子(たなこ)の身元保証や迷惑行為の対処、争い事の仲裁、道路の修繕、店子の病気やけがの救済、冠婚葬祭の世話など、様々な役目を担っていたようです。

店子が犯罪や事件を起せば、身元保証人として町の奉行所に同行して連帯責任を取らされました。

「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」と言う慣用句は、ここに由来しています。

 

様々な仕事を行う家守の収入源は、地主からもらう長屋の管理に対する報酬のほかに、長屋の雪隠に溜まる糞尿を、江戸近郊の農家に肥やしとして売ることができて、これも家守の大きな収入源の一つとなっていました。

 

 

明治の借家

1868年(慶応4年)12月には、元号が明治に変わり、明治政府が誕生しました。

明治時代になり天皇中心の中央集権体制の国家を作るための様々な制度の改正が行われました。

 

 

明治の土地

1873年(明治6年)には地租改正条例が公布され、国有地と民有地の区分けが行われました。

これにより「地券(=地主が所有する土地の権利証)」の発行が必要な土地、あるいは課税が必要となる土地に分類されました。

また、民間による土地の測量も行われ、これを官吏が検査するという方法での調査も行われました。

これらの事業を通じて、一つの土地に一人の地主が定められ、納税義務者を特定しました。その結果、近代的な土地所有権が地主に認められました。

 

土地には「地番(=登記上の番号)」が付けられます。加えて、現在の法務局が管理する「公図」の原点となっている図面も作成されました。

この図面により、土地の位置や形状を法的に定められました。

 

 

明治時代の借家経営

1876年(明治9年)に、東京・京橋の借家人を募集する広告が「東京曙新聞」に掲載されました。

さらに明治時代中期になると、借家の規模や件数が拡大していき、個人仲介業者や、土地・建物の売買を行う不動産業者が誕生しました。

 

 

明治時代の長屋

明治時代初期の借家は、江戸時代と変わらずほとんどが長屋でした。

徐々に2階建ての長屋も建てられ、トイレも各戸に設置されるようになりました。

長崎や横浜などの旧外国人居留地には、外国人向けの洋風造りの借家が建てられていました。

 

1910年(明治43年)11月6日には、日本初の木造積層共同住宅の「上野倶楽部」が上野公園に隣接して建てられました。

5階建てで洋風の外観に共同の浴室があり、入居者は日本人だけでなくロシア人やフランス人もいました。

これが日本初の賃貸アパートです。

 

 

大正の借家

1921年(大正10年)に現在の借地法・借家法の原型となる法律が制定されました。

これにより、入居の事実があれば登記に関係なく地主に対抗できるようになり、借地人は安心して暮らせるようになりました。

 

 

建物の構造の変化

 

1916年(大正5年)、日本で初めて鉄筋コンクリート造の三菱鉱業の社宅となる共同住宅「炭鉱住宅」が、長崎県高島町の端島(軍艦島)に建てられました。

端島は南北約480m、東西約160m、周囲約1.2kmの小さな島です。

限られた土地の島内では、住宅を高層化する必要があり、鉄筋コンクリート造はこの立地に適していました。

 

1923年(大正12年)、関東地方を襲った「関東大震災」は東京を中心に大規模な建物の倒壊と火災をもたらしました。

この災害で、木造や明治時代に導入されたレンガ造りの家屋は大きな被害を受けましたが、鉄筋コンクリート造の家屋は倒壊しませんでした。

これにより鉄筋コンクリート造は、耐震や耐火構造が優れていることが証明され、建物の建設促進をもたらすことになりました。

 

同年には、当時の東京市営アパート「古石場住宅」が借家としては初めて鉄筋コンクリート造で建てられました。

この頃の借家はまだほとんどが木造の一戸建てでした。

 

 

昭和の借家

昭和に入ると、関東大震災による被災者のための住宅対策事業を実施するための内務省社会局の外部団体として設立された「財団法人同潤会」によって東京代官山に文化アパートが建てられました。

また、日本初の独身女子用アパート「大塚女子アパート」が完成するなど東京では借家が急増しました。

 

 

戦後の住宅不足

1945年(昭和20年)に太平洋戦争が終戦となり、戦災焼失による住宅不足に資材不足も重なり深刻な住宅不足が生じました。

東京では、疎開者の出戻りが激増し、借家の部屋代が高騰しました。

 

 

農地改革

1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)にかけて、地主と小作人との封建的な主従関係の解消を目指した農地改革が実施されました。

この改革では、地主が所有農地の所在地に居住していない「不在地主」の小作地の全てと、在村地主の小作地のうち都府県で平均一町歩(一町歩=約1ヘクタール)、北海道で四町歩を超える農地を国が買い上げ、小作農民に売り渡しました。

これにより、改革直前の小作地の8割(約190万町歩)が解放されました。

 

 

不動産業者の急増

また、1946年(昭和21年)には、庶民金庫が簡易住宅建設資金の融資を開始しました。

さらに、翌年には「土地台帳・家屋台帳法」が公布され、家屋税法を廃止して固定資産税ができました。

この頃から不動産業者が急増しはじめ、中には悪質業者も現われてトラブルが増加しました。

 

1954年(昭和29年)末の「神武景気」以降、日本経済は高度成長期をむかえ、昭和30年代半ばから企業は工場やオフィスとしての用地を求め、庶民はマイホームを求めるなどして土地需要が急増し土地価格が高騰しました。

「土地こそ資産」という「土地神話」が広がっていきました。

 

 

昭和の住宅の構造

1966年(昭和41年)に「借地法・借家法」が改正され、借地・借家人の権利が拡大しました。

続く1967年(昭和42年)に、住宅公団が「3LDK型」を採用してリビングルームが流行し、さらに、造り付け押入れや木製間仕切りなど、内装のパネル化が始まりました。

また、1970年(昭和45年)頃には家庭用ガス湯沸かし器の普及が始まりました。

 

 

土地の譲渡に対する課税の改正

1969年(昭和44年)の税制改正では、「土地の供給及び有効利用の促進」を図るため、5年以上の長期保有土地の譲渡所得にかかわる税負担を大幅に軽減することとし、従来の総合課税方式から分離比例課税方式に変更しました。

また、土地の譲渡に対する税率をはじめは低く設定し、年数が経つにつれて高くすることで、土地所有者に対して売り急ぎ心理を助長することで宅地供給の促進を図ろうとしました。

 

 

賃貸経営の事業の成長

昭和50年代には、住宅メーカーは規格型の賃貸マンション・賃貸アパートを発売するようになりました。

この頃には、賃貸マンション・賃貸アパートや貸店舗などの賃貸建物を専門とする建設業者も誕生し、賃貸経営が安定した事業であると社会的に認知されるようになりました。

また、全国的な道路整備の進展もあって、飲食店などのロードサイドビジネスが盛んになり、貸店舗や店舗付賃貸住宅も数多く建てられるようになりました。

 

昭和60年代になると、建設業者は自社で建築した賃貸マンション・賃貸アパートについて、「家賃保証制度」や「一括借り上げ制度」を採用し、空室によって家賃収入が途絶え、賃貸経営が成り立たなくなるリスクを一定期間軽減する制度を設けました。

 

 

平成の借家

1989年(平成元年)12月29日に日経平均株価は38,915円87銭の史上最高値を付けたあと、1991年(平成3年)2月から急落を始め、バブル経済の崩壊が始まりました。

その間に不動産価格も大きく値を下げ、「土地神話」は崩壊しました。

 

 

節税目的としての借家

土地税制は、強化されると同時に、様々な税負担の軽減措置や特例などの優遇措置も設けられました。

その中で、主に「相続税」「地価税」「固定資産税」の優遇措置の適用を受ける節税目的で、所有地(遊休地)に借家を建てて、土地を活用することが盛んに行なわれました。

 

不動産投資で相続税をおさえる方法については以下の記事に詳しく記載されています。

 

 

ゼロ金利政策での借家経営

1993年(平成5年)、バブル経済崩壊後の不況で東京都内の企業の倒産や撤退が相次ぎ、オフィスの空室率が12月には9.1%に達しました。

1999年(平成11年)、日銀は資金供給を大幅に増やし、デフレスパイラルに陥る懸念や金融不安を払拭することを狙いました。

無担保コール翌日物の金利を大幅に下げ、仲介手数料と差し引きで金利を実質ゼロとする「ゼロ金利政策」を1994年(平成12年)8月まで実施しました。

その後も、株価の下落や不良債権問題による景気の先行き不安から、1995年(平成13年)3月からゼロ金利政策を再度実施し、加えて量的緩和政策も実施しました。

 

これらにより、金融機関からの借入金の返済金利が大幅に低下し、遊休土地などに金融機関などから借り入をした資金で借家を建てる借家経営の収益が向上し、土地資産を活用した賃貸住宅経営は高収益事業になりました。

 

 

定期借家制度

「特定優良賃貸住宅制度(特優賃)」により、1994年(平成12年)、新借地借家法の趣旨をさらに進展させる目的で、期間の満了によって契約が終了となる、従来のような「契約の更新」を認めない定期借家制度がスタートしました。

これにより、比較的面積が広く良質な賃貸住宅を中堅所得者に向けた供給の促進が期待されました。

この認定を受けた入居者は、所得に応じて国や各自治体から家賃補助を受けることができます。

 

 

高齢者向け優良賃貸住宅制度

1995年(平成13年)には「高齢者の居住の安定確保に関する法律」が施行され、同法に基づき、民間活力の活用で良質な賃貸住宅の供給促進を図る「高齢者向け優良賃貸住宅制度(高優賃)」が誕生しました。

これにより、高齢者向け賃貸住宅を提供する事業者は各種の支援措置を受けることができます。

 

 

令和の借家

ここ数年で人口減少、少子高齢化が本格的に到来したことにより、将来的に人口や世帯数が大きく減少していくことが予想されます。

このような状況で賃貸業を行うには慎重に戦略を検討する必要があります。

 

平成30年の住宅・土地統計調査(総務省統計局)によると、全国の現住居以外に貸家用住宅を所有する世帯は、122万6,300世帯です。

そのうち、空き家になっている貸家を所有する世帯は、19万2,300世帯で、その比率である空き家世帯率は15.7%になります。

都道府県別に見ると、貸家用住宅を所有する世帯が多いのは、東京都の18万8,100世帯を筆頭に、大都市部に多くなっています。

空き家率を見ると貸家を持つには需要のあるエリアの選定が重要であることがわかります。

所有世帯が多く、空き家率が低いのは東京、神奈川、埼玉、福岡などの大都市です。

引用:賃貸住宅市場の動向と 将来予測(展望)調査

 

 

賃貸事業は需要のあるエリアを見極める必要があります。

ただし、一番空き家率の少ない東京で賃貸業を行おうと思っていても、東京の住宅価格はかなり高騰していてサラリーマンの副業としてはなかなか手を出せません。

そこで、住宅価格も考慮した上で注目すべきエリアは福岡県です。

 

福岡県では福岡再開発プロジェクトとして「天神ビッグバン」や「博多コネクティッド」が進んでおり、新たなオフィスビルの開設やリニューアルは他地域から移転する企業を促す要因の一つとなりえます。

コロナ禍を機に、東京などから地方へ本社を移転する「脱首都圏」の動きが広がっており、リモートワークやウェブ会議システムの普及が進むなか、本社移転動向は注目されています。

引用:福岡県・本社移転企業調査(2022年)| 帝国データバンク[TDB]

 

オフィスが福岡に移れば、それに伴い住宅の需要も増していきます。

住みやすく、住み続けたいまちとしても人気の福岡で不動産賃貸業を始めるのは一つの戦略になりそうです。

 

成長都市「福岡」の不動産投資については以下の記事で紹介していますのでぜひご覧ください。

 

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